|
暴力について
2011年12月17日(土)に多摩川の河原でフルーツバスケットをしました。フルーツバスケットとは質問に応じて動く、椅子取りゲームの一種です。通常と違うのは、テーマをフルーツにせず、『暴力』となっているところです。アーティストや学芸員などのゲストと観客入り混じった20人程度の大人たちで、暴力についてのフルーツバスケットを行った後、その映像を見ながら、Art and Riverギャラリーにてディスカッションを行いました。
このイベントは、眼前にある問題や困難と戯れつつ、それぞれの世界を捉えなおす、ゆるやかな思考と実験の為の学校「The Academy of Alter-Globalization」とCAMPの共同主催です。 私は今回のテーマである、暴力を『コミュニケーションの取れない状態での力のやり取り』だと定義してゲームに挑みました。例えばボクシングなどのルールのある格闘技やスポーツなどはコミュニケーションの取れる状態なので、暴力ではありません。戦う前から力の差が歴然だとしても、格闘技やスポーツを暴力とは言いません。でも道ばたで突然殴るなどの相互了解のない場合は、殴られた方が強かったとしても、暴力になります。言葉の暴力もしかり。 なので、フルーツバスケットで誰かが質問していた「目覚まし時計は暴力だと思う人!」では、私は椅子から立ち上がりませんでした。私と時計との間には、「決まった時間にベルを鳴らしてね。」というコミュニケーションがあるので、暴力的な音で不快にさせられたとしても、暴力にはなりません。 私はみんなに「神は暴力を振るうと思う人!」と質問しました。この投げかけに対して、私は明確な回答を持っていません。疑問だったので、みんなに投げかけたのです。結果として一人だけ立ち上がりました。立ち上がった彼は、フルーツバスケット終了後のディスカッションで、聖書の中でキリストの父の殺した人数(200万人以上)と悪魔の殺した人数(10人)の話を聞き、神は暴力を振るうと判断したと言っていました。 私は、殺されてしまった数の比較で考えるのも面白いけど、誰かより多い数を殺したから暴力ではなくて、悪魔と神とのやり取りの手段として、悪魔と人間、神と人間の力やり取り(殺人)があり、神は人間に対して同意のない力をふるったという意味において暴力が発生したと感じたのかなと思いました。「神と悪魔は対立しあうもの」という前提を人間は了解しているので、悪魔とのやり取りに対しては暴力とは言わず戦争や争いと言い、人間に対しては「赦す」というコミュニケーションをとるハズの神が、突然振るった力に対して暴力だと感じてしまったのも彼が椅子を立った一つの要因かなと思いました(考えすぎかもしれませんが!)。 そして、私が質問した意図は、神と私たちはコミュニケーションができるのか?という疑問からです。遠藤周作の小説『沈黙』では、神は司祭や信者がいくら抑圧されても暴行を受けても救済せず、気配を見せない。「神を信じること」のために抑圧され続ける主人公の司祭は、神のためにしていることなのに、救済しないなんて!神はいないのか、私たちを見ていないのかと落胆しますが、最後には、何も手を差し伸べない神を、「ずっと側におられた」と感じ、その存在を感じることが神の存在だと確信します。 悔い改めよ、そうすれば神はあなたを救うと謳う欧米からすれば、救わずに存在するだけというアニミズム的な神は、随分東洋的ですが、私が疑問に思ったのは、その「(非物質として)側に居る」は、コミュニケーションとして何処まで可能なのか疑問に思ったのです。 それは別の言葉を使えば、愛はどこまで可能か、信頼はどこまで深さがあるのかとも言えるかと思います。相互のコミュニケーションの「了解」の危うさがそこには含まれています。私はキリストの父とも、神とも言いませんが、「何か」を信頼しています。別の人にとっては、「何か」に宗教的な言葉が入ります。その信頼はどこまで可能なのか、暴力はどこで発生するのか疑問に思ったのです。 ディスカッションで、ある人が「暴力は受ける・受けないを選択できる」と発言していたのも興味深かったです。私は幼いころ、「暴力を受けるのはイヤだな。だって、傷跡が残るんだもん!」と思っていました。この傷跡とは、身体に直接残る傷跡もそうですが、記憶として残る傷跡も指します。向こうから一方的にやってきたのに、「傷つけられた・汚された自分」を形作られるって、なんてこったい!と思ってたわけです。実際に心に傷を負うと、脳の扁桃核に物理的な傷がつくこともあります。 しかしある時に気がついたのです。「私は汚されることはない」と!例えば誰かが私に、「おい、この豚野郎!」と言ったとしても、私は豚野郎に変身するわけではなくて、「おい、この豚野郎!と発言したあなた」が出来上がってしまうだけなのです。私はその言葉を受け取らないという選択もあったのです。わーい受け取りませーん。よかったよかった。逆に言えば、それまでは誰か達が突然やって来て、「おまえらは汚らしい民族だ」とか、「豚だ」とか言えば、あー汚くなっちゃった、豚になっちゃった。と思ってしまっていたのです。悲しい。ぽろぽろ。 デモは暴力の一種だと思いますが、東電本社の前を練り歩いても、受け取らざるを得ない力を行使していないので、残念ながら東電側は受け取っていません。でも隠されたデモの目的は、東電とデモ隊の同意のないコミュニケーションという暴力行為ではなく、(テレビが自分たちを取り上げないという言い分の内容や、インターネットで画像をアップしている様を見ていると)デモを通してメディアとコミュニケーションを取ろうとしているのかな、画面の向こうのみんなとコミュニケーションしたいのかなと思いました。一応補足しますが、こんな乱暴な書き方をしているし私は一緒に歩かないという意思表明もしていますが、デモを行うことや、その力は応援しています。 なので、フルーツバスケットの質問で「暴力が好きな人!」でも椅子を離れました。厳密には、暴力があると認めることが好きです。時々「あなたは差別される側の人間だから、差別はしないでしょ?」と聞かれますが(今回も聞かれました)、差別しています、してしまいます。それを認めたいし、差別がこの世界から無くなるとは思っていません。あと、差別と暴力ってとっても近いけど違うなとも思っています。順送りな暴力は悲しいし、少なくなればいいなーとは願うけど、暴力や差別が無いことを肯定すると見えなくなることの方が、幸か不幸か芸術家の私は危険に感じるのです。 話を戻すと、受け取らざるを得ない時の方が多いですが、暴力を受け取らないという選択肢の可能性はとても素晴らしいものだと思います。今回のフルーツバスケットは、暴力の様々な面を確認できる機会となりました。 |


















⇒ boop (09/26)
⇒ yumisong (09/20)
⇒ boop (09/13)
⇒ yumisong (09/01)
⇒ boop (08/28)
⇒ yumisong (08/26)
⇒ okayasu (08/19)
⇒ yumisong (01/30)
⇒ ユミソン (01/30)
⇒ 鈴木勲 (01/29)